2009年03月18日

30,000ヒット達成記念特集

ハルです、こんにちは。

今日も、昨日に続き私の経歴を書きます。今日は、高校時代を中心に書きます。ハルの学生時代?A
高校は県内でも伝統校の岩手県立花巻北高等学校に入りました。旧制中学校が始まりなので、ややバンカラ気質が漂っていました。進学校でもあったので、大半が大学に進みます。

私の学年は、例年になく優秀な学生が集まったようで、結果的に東大1名(現役)、東北大2名(現役)、岩手大約30名、その他国立大10名ほど。有名私大は約20名いました(我々の学年は全部で234人)。それと珍しく医学部に進んだ者が3名いました。私の親友もその中の1人(現在内科で開業中)です。

優秀な生徒が集まった学年ですが、私はズバリ!落ちこぼれでした。1年生の夏までは多少勉強していたのですが、その後はまったく勉強したくなくなりました。今振り返ってみてその理由を考えるのですが、はっきりと思い当たりません。とにかく生活全般に意欲が湧かないのです。本当に情けない高校時代でした。そのため成績は、ビリのほうでした。担任の先生からは、進学できないと脅かされ続けました。それでもやる気が起こりませんでした(-_-;)。

勉強はだめでしたが遊びは色々しました。友達には恵まれ、親友が5、6人できました。現在は疎遠になっていますが、大学時代も休みには集まり、旅行に行っていました。特に部活の仲間のOとTは、仲が良く社会人になってもしばらくは正月に会っていました。その2人は、偶然か必然か判りませんが、医療関係者です(1人は内科開業医、もう1人は臨床検査センター幹部)。

この親友2人ができたのは、部活でですが、それはなんと、柔道部の仲間!です。私は、前回書いたように子供時代は病弱でした。中学校で健康な男子学生になりましたが、身体は痩せていました。およそ柔道向きの体ではなかったのです。そのため柔道部での立場は、最初補欠でしたが、後はマネージャーをしていました。柔道は上手くはなかったですが、楽しい経験ができて、その面では救われた思いです。

そんなダメ高校生だったので、大学受験は案の定、すべて不合格でした。必然的に浪人をしました。しかし、この浪人時代がその後の自分の生きる力になったと思います。

この浪人時代は、2年続きました。最初の1年は仕送りで暮らしましたが、勉強に力を注げませんでした。情けないのですが、勉強の意欲が湧かないのです。2年目はさすがに母もあきれて、援助はもう無理と言いました(高齢の母です。そんなに無理はできなかったのです)。

そのため予備校を続ける必要上、アルバイト(新聞配達)に明け暮ました。それでも母には、予備校のお金と大学の入学金の一部を結果として出してもらいました。本当に感謝しています。大変な贅沢をしたと思います。自活は遅すぎたかもしれません。甘いといえば甘いです。

しかし、この新聞配達のアルバイトが色々なことを教えてくれました。まず、「仕事を続けることの大切さ面白さ」、そして「人間関係の複雑さ」でした。

新聞配達は、朝4時半ぐらいに起きて2時間程度朝刊を配達し、夕方は4時から1時間半程度夕刊を配達します。その他夕食後に1時間程度新聞折込チラシの仕分けをします。そして、月に数日集金と「拡張」と言って、新規購読者の勧誘に配達区域を回ります。意外にやることは多いのです。

私は、最初1年は杉並区和泉1〜4丁目を担当していました。その後荻窪支店に回され荻窪の1、2丁目、南荻窪1、4丁目を担当しました。

和泉では、いわば庶民的な家が多く学生、社会人も多く住んでいました。有名人のお客さんに歌手の布施明さん、巨人軍の堀内恒夫さんがいました。堀内選手とは何度か話しました。荻窪では、高級住宅街を主として配達していました。角川書店の社長宅とか三井物産副社長宅とか財界人の自宅が多くありました。有名人では、菅原文太さん(俳優)、荻昌弘さん(映画評論家)などがお客さんでした。トラック野郎で有名な菅原文太さんには、「兄ちゃん、頑張れよ」と声をかけてもらったことが印象深いです。

和泉では新聞配達の仕事をとにかく夢中でしました。まだ新米だったのでとにかく仕事をこなすだけで余裕はありませんでした。しかし、荻窪では、仕事に慣れてきたので、多少余裕が出てきて失敗もありましたが大過なく過ごしました。楽しいことの記憶が多く残っています。

例えば、拡張の仕事(新聞の新規購読者の勧誘)は、1件新規勧誘をすると報酬がでます。1件の報酬は200円〜1000円程度ですが、私が勤めていた新聞販売店(毎日新聞)は、都内でも仕事をする店だったので、拡張にかなり力を入れていました。そのため、多いときは1週間に3日ほど拡張がありました。それで、拡張の報酬が月5万円ぐらいになりました。住み込みで働いていましたので、食住の費用は店持ち。給与は月5万円程度でしたから、報酬はすべて小遣いに使えました。30年前の5万円の小遣いは、かなりリッチでした。毎晩同僚と飲みに行ったり遊びに行きました。20万円のステレオコンポを揃えたりしました。しかし、貯金はしませんでした(^_^;)。

この拡張で仕事の面白さを得ることができました。拡張は、店の中でも競争でした。毎月成績表が張られ店長から「どんどん行け」と煽られていました。どうやら私には営業のセンスがあったようで、毎月ベスト3に入っていました。一番多い報酬は、月9万円だったと記憶しています。夜な夜な拡張に行くのです。どこに行くかと言えば、若い夫婦者とか、OL、学生です。配達地域の住民を詳細に把握し、その性格や人柄を理解していれば、拡張はそんなに難しくないです。特に若いOLはターゲットです。礼儀をわきまえ、誠意を持って営業すれば大半が勧誘できました。女の子の友達も2、3人できました。お金も貰え、話もでき、とにかく拡張は楽しかったです(^_^)v。

しかし、一方仕事の厳しさも同時に体験しました。新聞配達は、早朝、夕方定時に新聞を届けないといけません。しかし、雨の日は本当に大変です。商品ですから、新聞を濡らさないように配らなくてはいけません。これは神経を使います。それと朝4時半起きです。前の晩飲み過ぎて二日酔いで配ったことはしょっちゅうでした。眠いのと気持ち悪いのとで、最悪の状態でした。あんな状態での仕事は、二度としたくないです(これも自分がまいた種ですが)。

新聞配達のアルバイトは結果として3年半続けました。本当に良い経験をしました。まずお金を得たこと。この新聞配達で予備校と大学の学費を賄いました。小遣いも稼ぎました。生活費全般を賄ったのです。そして、仕事の実地体験です。わずかな経験かもしれませんが、私の人生の基礎になっています。この新聞配達をしたお陰で、「人生、頑張ればどうにかできる」という人生哲学を得ました。そして、忍耐力です。貴重な体験をしたと思います。
posted by ハル at 06:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 企画案内(セミナーなど) | 更新情報をチェックする
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